古代 尾張(海部郡、中嶋郡)に於ける 式内社についての覚書  

            1.はじめに
               丹羽・春日部・山田郡の式内社をみてきましたが、尾張全般の傾向は、掴みきれません。片手おち
              の嫌いがあるように思い直し、意を決して海部郡・中嶋郡・葉栗郡・愛智郡・知多郡と順を追って垣間
              見てみようと思いました。尾張一ノ宮の真清田神社の社記等つぶさにながめ、一ノ宮の由来は、何で
              あったのか。知りたいとは思います。

            2.海部郡に於ける式内社
               海部郡は、愛知県西南部、木曽川下流域の東側であり、南には伊勢湾を望む地域であり、現 甚目
              寺町をはじめとする12町村で構成されている。

               海部郡は、木曾八流とも言われた木曽川から流出した土砂により形成された三角州平野であり、現
              日光川、目比川、五条川はかっての木曾八流の名残りであるとも言われているとか。

               ここは、大和朝廷の東国進出の前進基地であったと言い伝えられている所であり、初期大和朝廷の
              行政単位である県が置かれた所でもあったという。
               式内社は、8社が存在しているという。

              ・ 国玉神社 (諸説あり、一つは弥五郎殿社か。あと一つは国玉神社か。)
                 弥五郎殿社の所在地は、津島市神明町、津島神社の第1摂社にあたる。祭神は、大巳貴命、竹内
                宿禰であるという。
                 津島市史にも、「弥五郎殿社は、土着の堀田氏の姓祖を祀る地主の社であり」と記され、津島神社
                宮司 毛利栄一氏も、「社家の堀田氏の所伝にも、竹内宿禰は、堀田氏の姓祖であると伝えられてお
                り、古くから地主の神と伝えられており、国玉神社であるとも言われているとか」語られているという。

                 あと一つ、国玉神社で、所在地は、名古屋市中川区富田町万場で、祭神は、大物主神であるという。
                神代紀には、「大国主神、亦の名を大物主神、亦は、国作大己貴命号す。(中略)亦は、八千戈神と曰
                す。亦は、大国玉神と曰す。」と記述されている。
                 大和の大和神社の祭神は、大和大国魂大神、八千戈大神等々であり、類推すれば、国玉神社を尾張
                国海部郡の国魂として、この地に祭祀したものと考えてもよいのではないかと。
              
              ・ 諸鍬神社
                 所在地は、海部郡佐織町諸桑、祭神は、天諸羽命(あめのもろはのみこと)といい、宇摩志摩治命と
                は、何らかの繋がりがあるという。この神社は、物部氏の祖を祀る神社かと。

                 佐織町史には、「天保9年4月、満成寺裏のため池から45尺ばかりの鰹節型の大木が見つかり、堀
                出すと、楠の木を以って、製作せし繰船であったという。」この諸桑村でみつかった船は、往時最も利用
                された交通機関であったのであろうか。

              ・ 漆部神社
                 所在地は、海部郡甚目寺町大字甚目寺、祭神は、三見宿禰命(みつみのすくねのみこと)、木花咲耶
                姫命(このはなさくやひめのみこと)であり、どちらも物部氏の祖でありましょう。

                 この漆部神社は、南北朝の頃、戦火を蒙り、廃絶した式内社であったようで、現 漆部神社宮司 山田
                壽一氏は、「お宮の北、現名鉄津島線の線路下になっている所に、漆塚と言われていた所があったと言わ
                れており、そこが、旧社地であった。」という。

                 旧事紀 天孫本紀のニギハヤヒ4世孫の項に、「三見宿禰命。漆部連等祖。」と記されていると。また、漆
                部神社略誌(尾崎久禰著)には、「上代より諸種の漆を塗る事あり、(中略)漆部連(ぬりべのむらじ)ありて、
                漆の事を掌る。後、大宝元(701)年漆部司となし、大蔵省の下に属さしめられ、大同3(808)年勅して内匠
                寮(たくみりょう)に併せせしめられた。漆部氏は、かくしておこり、各地へ、その一部が当地へ来たもので、
                その祖を三見宿禰命という。」と記されていた。この漆部氏は、物部氏の後裔であるという。

              ・ 藤嶋神社
                 所在地は、海部郡七宝町秋竹、祭神は、市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)といい、宗像三神の一神
                であるという。この神は、海の神、航海安全の神であり、海人族の宗像氏が奉祀した神であるという。

                 往古、この辺りは、海であったようで、木曾三川によって運ばれてきた堆積物により出来た州が、島になっ
                たようで、沖ノ島、遠島と呼ばれていたとか。現 七宝町の地名には、沖ノ島、遠島があると言う。その遠島の
                近くにこの藤嶋神社はあるという。この辺りは、海人族の一族が、住み着き、海人族の祭神を祀ったのであり
                ましょうか。

              ・ 由乃伎(ゆのき)神社
                 所在地は、海部郡佐屋町柚木、祭神は、日子湯支命(ひこゆぎのみこと)であり、この神は、ニギハヤヒの
                孫、宇摩志摩治命の子であるという。やはり、物部氏の遠祖ではありましょう。

              ・ 宇太志(うたし)神社
                 所在地は、海部郡八開村開治蔵王西、祭神は、邑上足尼命(うがたりにのみこと)といい、尾張氏の始祖
                とも、天火明命の子孫ともという説があり、尾張氏と同族の海人の一族が、この地に住みついて祀ったので
                はないかと考えられるという。

                 尾張名所図会には、「この地には、田畑に巨石数多あり。(中略)石塚と呼べども塚墓の面影は見えず。」
                とある。この石塚と言われる所は、現社地の東方約750mの所にあったと言われ、旧社地であったと伝え
                られているという。宮司は、「古老から、この石塚の大きな石は、ほとんど近くの民家の庭石になっていると
                聞いております。」と話されているという。

              ・ 憶感(おかみ)神社
                 所在地は、津島市神守町上町、祭神は、おかみ神(龍神)であり、雨を司る神でありましょう。
                 往古、宮(熱田)から桑名までの七里の渡しの脇往還であり、海が荒れた時、或いは船の嫌いな旅人等に
                大いに利用された道であり、その街道筋にあったのが、この憶感神社であったという。

              ・ 伊久波(いくは)神社
                 所在地は、中島郡平和町下三宅、祭神は、的臣祖(いくわのおみのおや)、菊理姫命といい、的臣は、古代
                の大豪族 葛城氏と同族であるという。また、一説には、的臣は、軍司的な職掌に携わる的部の伴造氏族であ
                ったとする説もあるかと。

                 また、この三宅の地には、間敷屯倉があったとする。「このお宮の西200m程の所に屯倉跡とも言われた地が
                あり、現 屯倉社(とんそうしゃ)という神社もあるという。」伊久波神社の宮司さんが、そのように語ったという。

                 以上が、海部郡の式内社であるという。
                 < 海部郡の式内社から推察できること >
                   海部郡は、海岸か、その近くの地域であり、海人族との関わりが深いように思います。式内社8社中、3社
                  が、物部氏との関わりが深い神社であり、物部氏の曲部(かきべ)と思われる氏族も存在したやに推察でき
                  ました。また、1社が、尾張氏に関わる神社でありました。その神社には、本来この地域にはない大石があり、
                  磐境(いわくら)の類ではないかと推察いたしました。とすれば、神社の原型かとも思えました。畿内の初期大
                  和王権の大豪族葛城氏に関わる神社も1社があり、部民であり、伴造であったろうか。この伊久波神社辺りに
                  は、間敷屯倉の存在が類推できそうな、屯倉に関わる屯倉社(とんそうしゃ)という社も存在していた。春日井
                  市史では、間敷屯倉は、中世の安食荘辺りかとも推察されていましたが、継体天皇の御子、後に天皇となられ
                  た方が、この間敷屯倉の生産物(米)を北九州 那の津(現 博多港)まで、運ぶようにと尾張連に命じたとか
                  日本書紀に記されています。とすれば、この海部郡に間敷屯倉があったとすれば、詔の辻褄が合うと言えまし
                  ょうか。また、対馬国の宗像三神の一神を祀る神社も、1社あり、この地域の住人は、海からの進入者であり
                  ましょうか。

                   物部氏と繋がりのある諸鍬神社のある諸桑村のため池からは、楠の木で造られた繰船が、発見されたと
                  いう。海からの進入用の舟なのか、河川の移動用の舟かは、現時点では、判別はし難いのではありますが、
                   これらから類推すれば、物部氏も、海よりこの地域に進出し、基盤を造り、そして、内陸部へと進出したの
                  ではと考える事もできよう。そして、初期大和朝廷も、伴造であり、4世紀頃から頭角を現してきた葛城氏をし
                  て、この地域へ進出させ、屯倉を創設して、直接支配に乗り出したのではないかとも推察いたしました。

                   只、尾張氏については、確かに現 海部郡八開村辺りに、初期神社形式の磐境(いわくら)形式の神社を
                  創設したのではとも考えられるのであり、やはり海人族とも言われておりますから海から進出してきたのか
                  とも類推いたします。

              3.中嶋郡の式内社
                 中嶋郡は、愛知県西部、木曽川中流域の左岸に位置し、対岸は、岐阜県の羽鳥市である。
                 祖父江町・平和町・稲沢市・尾西市・一宮市の一部が含まれていたようで、古代では、尾張の中心的な地域であ
                り、延喜式式内社は、30社が記載されているという。

               ・ 坂手神社
                  所在地は、一宮市佐千原字宮東、祭神は、高水上神(たかみのかみのかみ)。当社御由緒石碑には、「垂
                 仁天皇の御世、皇女倭姫命が、天照大神を載奉りて、御幸のおり、当地に入られ、字北郷に仮宮を御造営
                 され、宮東に坂手大神を奉斎されたと言い伝えられている。」と彫られているという。伊勢神宮とは、何やら繋
                 がりがあるやに推察できます。

               ・ 見努(みぬ)神社
                  式内社の研究(志賀剛著)には、「所在は、平沼村天神社、込野村八龍社その他二、三の説あれど何れの社
                 とも決めがたし。」と記述され、尾張志には、「今廃れてその旧址もなし。」とされていました。水害等で、集落もろ
                 とも消え去ったのでありましょうか。
                
                  西春日井郡清洲町の近く、国道22号線沿いに小さな祠があり、大きな楠の木の下に鎮座しており、三奴(みぬ)
                 天王社という。見努(みぬ)と三奴(みぬ)語呂はいいが、確証はない。清洲には、通常の弥生遺跡より、遥かに
                 大きい朝日遺跡があり、そこに、清洲城が築かれたと言う。尾張の要衝であったと思われます。

               ・ 大神(おおみわ)神社
                  所在地は、一宮市花池2丁目、祭神は、大物主神であるという。当社は、大和から移住してきた大三輪氏と地
                 元豪族集団の融合により、美和氏が誕生したのではないかと考えられる。当社の東隣には、真言宗薬師寺があ
                 り、神宮寺であったとか。この寺は、江戸時代「いせや寺」と呼ばれ、伊勢神宮の初穂料を取り納める場所であっ
                 たとか。
                  現社地は、旧社地から少し南方に移っているようで、旧社地は、古宮とか御手洗と呼んでいるようであります。

               ・ 波蘇伎(はそき)神社
                  所在地は、不明。
                  津田正生著 尾張神名帳集説乃訂考によれば、波蘇伎神社の項に、「南麻績(みなみおうみ)村 現 稲沢市
                 南麻績町 天神と呼ぶ小社その俤(おもかげ)なるべし。波曽岐はかな書也。波蘇伎はへそ木にて、麻績に就(
                 つき)たる言葉也。麻績村と服部村は、初めは伊勢の国より移り来て、尾張の方にも地名となれり」と記されては
                 いる。

               ・ 針熊神社
                  尾張志には、「今はうせて、その旧地を知る人なし。」と記される。

               ・ 野見(のみ)神社
                  所在地は、一宮市今伊勢町宮後、祭神は、野見宿禰命で、相撲の神様であり、土師氏の祖でもあるという。
                  おそらく、尾張氏によりこの地が開けた時、土師氏の一族が移住してきて祖神を祀ったのでしょう。

               ・ 浅井神社
                  所在地は、稲沢市浅井町宮西、祭神は、小子部連さびち。この祭神は、壬申の乱時、尾張国守で、大海人皇子
                 を助け、二万の軍勢を引きつれ、大友皇子軍を打ち負かした人であるが、勝利後、自害して果てた人でもありまし
                 た。

               ・ 裳昨(もくひ)神社
                  所在地は、稲沢市目比町、祭神は、裳昨臣船主(もぐいのおみふなぬし)、大和より伊賀伊勢を経由して、当地
                 に来られた四道将軍の一人で、その後裔が、裳昨臣船主であるという。当社は、幕末頃、現社地に移ったという。
                  それまでは、安養寺境内に、あったという。

               ・ 大(おお)神社
                  所在地は、一宮市大和町於保字郷中、祭神は、神八井耳命(かむやいみみのみこと)で、この神は、多氏の祖
                 とされる。当時は、祭祀と政治は分かれていて、祭祀は、上位に位置していたようで、神八井耳命は、兄である故
                 祭祀を司り、その弟は、天皇として政治を取ったという。神八井耳命の後裔である多氏は、相当高い地位にあった
                 のでありましょう。あの太安万侶も、多氏の一族であるという。新撰姓氏録には、多氏は、大、太、於保、飫富とも
                 記されており、和名抄にも、「大和国十市郡飫富という地名より出たる氏なり。」とある。当社へは、大和国から移
                 住した多氏が、氏神祭祀の地として、地元豪族の丹羽氏等と融合し、尾張北部一帯を次第に支配下に置いてい
                 ったのでありましょうか。

               ・ 知除波夜(ちちはや)神社
                  所在地は、不明。

               ・ 小塞(をせき)神社
                  所在地は、一宮市浅井町尾関、祭神は、天火明命(あめのほあかりのみこと)、天香山命(あめのかぐやまのみ
                 こと)で、尾張氏の祖でありましょう。
                  この地には、伝説があり、その伝説により、小塞神社は、船着大明神とも言われる。その昔、伊勢湾が、この地
                 まで入り込んでいた時、船付き場(港)であったという。

                  また、中嶋郡の豪族で、尾張氏と同族を主張する小塞連がいたという。延暦元(782)年12月、小塞宿禰弓張
                 は、「小塞連の祖は、元尾張氏と称し、庚寅年籍(609年)の時より、居住地の名を取って、小塞と称するように
                 なったが、それ以前の庚午年籍までの尾張の姓を賜りたい。」と奏言しているという。姓は、勝手には名乗れなか
                 ったのでしょうか。

                  小塞氏は、居住地の地名を名乗った氏族で、尾張氏の同族と伝えられているようです。

               ・ 石刀(いわと)神社
                  諸説あり、定かではない。
                  内、有力な社地として、一宮市今伊勢町馬寄と一宮市浅井町黒岩字石刀塚だという。どちらも石刀神社と称す。

               ・ 室原神社
                  所在地は、一宮市萩原町串作。詳しくは、資料等散逸し不明。

               ・ 高田波蘇伎(たかだはそき)神社
                  所在地は、一宮市高田町南屋敷、祭神は、応神天皇とか。詳しい事は、資料が、散逸したのか不明。

               ・ 大口神社
                  所在地は、不明。

               ・ ひめ夫神社
                  所在地は、中島郡平和町大字六輪字嫁振、祭神は、応神天皇と言うが、拝殿の木板には、祭神は、崇神天皇
                 の御母の弟、伊香色雄命の御子、大ひめ布命と書かれているという。天皇は、皇族を四道将軍として、各地に遣
                 わされた。大ひめ布命もその一人で、当地に留まり、繁栄したという。

               ・ 真清田神社 (延喜式では、真墨田神社と称した。)
                  所在地は、一宮市真清田1丁目、祭神は、天火明命。尾張氏の遠祖であります。この社は、尾張一ノ宮であり、
                 市名にもなっているのは、全国でもここ愛知県一宮市のみであるという。
 
                  一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮という社格の制は、国司が順拝する順位であるという。とすれば、国府があったのは、稲
                 沢であり、当然、一宮市の真清田神社が一番近い位置にあり、最初に参拝されたのでしょう。参考までに二ノ宮は、
                 犬山市の大縣神社であり、三ノ宮は、名古屋市熱田区の熱田神宮であったという。

               ・ 川曲(かはわ)神社
                  所在地は、稲沢市子生和町北屋敷、祭神は、菊理比売命(くくりひめのみこと)、応神天皇。ここの社務所は、伊
                 勢屋と称し、伊勢神宮の御師が、共二人を連れ、1月から3月まで滞在し、美濃国境までお札の配布と初穂料の徴
                 収をしていたという。明治になり、御師の制度が廃止されても、やはり社務所は、伊勢屋と呼ばれていたという。

               ・ 酒見(さかみ)神社
                  所在地は、一宮市今伊勢町本神戸、祭神は、天照大神、酒弥豆男・女命(さけみつお、さけみつめのみこと)の二
                 名。
                  崇神天皇は、天照大神と倭大国魂神が、同床共殿であり、神威を畏れ、天照を大和の笠縫邑(かさぬいむら)に、
                 倭大国を大和の市磯邑(いちしきむら)にそれぞれ祀らせたという。当社は、延喜式以前は、酒見御厨であり、伊勢
                 神宮へ白酒(しろき)と黒酒(くろき)を貢献していたという。代々、伊勢神宮からこの地へ造酒司(さけつかさ)を派
                 遣し、お神酒を造らせていたという。この本殿の西には、磐船(いわふね)が2個あり、お神酒を絞る為に使用され
                 ていたという。

               ・ 浅井神社
                  所在地は、一宮市浅井町東浅、祭神は、水波売神(みずはめのかみ)、塩土翁(しおつちのおきな)、前者は、肥料
                 ・水の神、後者は、海の神、どちらも水に関わる神のようです。

                  この辺りは、少し土を掘れば、河砂利が出て来るようで、昔木曾川の一支流 浅井川が流れていたとか。地下には
                 伏流水が流れ、尾北3名泉の一つとされていたようであります。

               ・ 久多神社
                  所在地は、稲沢市稲島石畑、祭神は、天背男命(あめのせおのみこと)で、この神は、尾張中島・海部直等祖とみ
                 える。この地域には、天背男命を祖神とした一族が、居住していた。中島直(本家)、海部直(分家)の尾張族(海人
                 族か)が、この辺りで繁栄していたのであろうか。
 
                  中島直の子孫は、久田氏と称していたという。暦応2年に一族の間で、争いが起こり、同族の野々村氏が神主職
                 を引き継いだという。が、この元の神社は、いつの頃か廃絶し、その後、天保13(1842)年に野々村氏が、再建し
                 たという。

               ・ 堤治(つつち)神社
                  所在地は、尾西市小信中島字宮浦、祭神は、埴安姫命(はにやすひめのみこと)、天照大神。この神社の最初
                 の神は、埴安姫命であり、粘土の神とも言う。粘土は、焼けば、固くなり、転じて強靭な土塁所謂堤防を意味する
                 とか。この辺りは、木曽川の洪水で悩まされている所であり、この神社は、木曽川大堤防鎮護の社であるという。

                  また、かって伊勢神宮の御厨があったようで、それ故、天照大神が祭祀されているようであります。

               ・ 石作神社
                  所在地は、海部郡甚目寺町大字石作、祭神は、不詳。こうした神社は、ここと、葉栗郡、丹羽郡、山田郡に各
                 1社ずつあり、垂仁天皇の皇后の石棺を作って献納したといういわれを持つと言う。他の神社では、石作連が関
                 わり、尾張氏と同族とか。ここの祭神は、定かではないが、おそらく、他の神社と同様であろうか。

               ・ 千野神社
                  所在地は、不明。

               ・ 塩江(しほへ)神社
                  所在地は、稲沢市中野宮町、祭神は、塩土大神(氏子は、猿田彦命が祭神であると言う。)。猿田彦命の子孫
                 は、大田命で、その命の子孫は、宇治土公氏であると言う。かって、この当社の神主であった牧野氏は、その宇
                 治土公氏の一族とも言われていたようで、いずれにしても、この地域へ宇治土公氏の一族が、何らかの理由で
                 居住し、伊勢外宮の海人族 渡会氏や磯部氏と繋がりがあったのかも知れません。

               ・ 布智(ふち)神社
                  所在地は、中島郡祖父江町大字本甲、しかし、古くは、淵天神、淵森天神と言われ、江戸時代頃は、火神社と
                 言われていたという。元宮は、現社の西参道のすぐ南の古墳らしき塚にあったとか。天保年間に、現在地に遷座
                 されたようです。

                  この社は、近くに日光川があり、増水して堤防が切れそうになると、火の玉となって、堤防を守護されたという。
                 やはり、堤防守護の社が、最初の起源ではなかろうか。

              ・ 宗形(むなかた)神社
                 所在地は、稲沢市国府宮4丁目、祭神は、田心姫命(たごりひめのみこと)、この神は、宗像神社の三神の一つ
                で、航海と漁業と水の守護神であるという。この宗形神社は、尾張大国霊神社(国府宮)の別宮であるという。

                 この社地は、大江川の近くであり、古くから有数の穀倉地帯でもあり、宗像の神を祀る海人の氏族が、木曽川の
                支流 大江川を利用して、船による生産物の輸送、交易に活躍し、繁盛していたのではないかと想像できる。

              ・ 尾張大国霊神社
                 所在地は、稲沢市国府宮1丁目、祭神は、尾張大国霊神。本殿の傍らには、七個の石による磐境(いわくら)が
                あるという。

                 この社の創始者は、海人族と言われる豪族、尾張氏の一族の祖、天背男命と伝えられると言う。
                 この神社は、天下の奇祭、裸祭りで有名であり、国府宮と通称は呼ばれる事が多いようであります。

              ・ 大御霊神社
                 所在地は、稲沢市国府宮2丁目、祭神は、大御霊神。この神社のことを、国府宮 田島仲康宮司は、「弥生時
                代は、磐境祭祀であって、本宮山を御神体として、これを奥宮、山麓の大縣神社を里宮とする氏族が、この地へ
                移住し、水田が広がるこの地に、五穀豊穣を祈願して、国府宮を田宮として祀ったのではないかと。」話されたと
                いう。

              ・ 鞆江(ともえ)神社
                 所在地は、尾西市明地字鞆、尾張名所図会には、鞆江神社が記載され、第1鳥居から神門までは、黒松参道
                や神宮寺の曹洞宗神江(ともえ)寺、神江川が描かれ、この川の源は、当社御手洗池(放生ヶ池)であったようで
                す。現在は、川は無く、池のみ存在している。かっては、湧き水の池であったのだろう。

                < 中嶋郡の式内社から推察できる事 >
                    式内社は、30社。内 所在が知れない神社は、7社、詳しい事が分からない神社は、2社あった。
                    それ故21社中、伊勢神宮と何らかのかかわりのある神社が、7社。尾張氏に関わる神社も5社。
                    後は、堤防を守る神社が、2社で、天皇の親族が、その地に居住して出来た神社 2社。大和朝廷に仕える
                   豪族が、その地に居住してできた神社が、各3社であった。宗像氏系の神社も1社存在している。

                    この辺りは、穀倉地帯であり、海人族が多いように感ずる。木曽川筋であり、洪水の危険が高く、水田と氾
                   濫は紙一重の地域であったのでありましょう。洪水で、消え去った神社もあった筈。伊勢国にも近く、この地の
                   穀倉が、魅力的であったのでありましょうか。伊勢神宮に関わりのある神社も多いようであります。

                    尾張氏、大三輪氏、多氏等は、畿内の豪族であり、天皇の親族もこの地に居住されたようで、陸路より、この
                   地へ移住されたのか、はたまた海路にて移住されてきたのでしょうか。相半ばであったと推察いたしております。